合気道の歴史について詳しく解説

合気道は、相手の力を利用して制する現代武術の一つです。

関節技、当身、投げ技で相手を制する格技ではありますが、他の武術のように他人と競い、優劣をつけるものではないため、試合は行ないという珍しい武術でもあります。

今回は、そんな合気道の歴史を詳しく解説していきます。

 

1.合気道の歴史

合気道は、日本古来の武道というイメージもあるかもしれませんが、「合気道」と呼ばれるようになったのは第二次世界大戦後のことで、弓道や柔道などと比べると新しい武道になります。

ここでは、合気道の歴史と開祖である植芝盛平について詳しくご紹介します。

 

1-1.はじまり~植芝盛平と武術~

合気道の開祖である植芝盛平は、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(今の田辺市)で生まれました。もともと身体か弱く内向的だったそうですが、心配した父が体力と覇気を養うよう働きかけ、だんだんと活発で外向的に育っていったそうです。

1902年頃から天神真楊流・柳生心眼流などの柔術、講道館柔道を学び、1915年には大東流の武田惣角に出会います。武田怱角の技に感銘を受け入門、ここで武術的開眼を得ることになります。

1920年には、宗教団体大本に入信、思想的影響を受け、京都の綾部に「植芝塾」道場設立、教団内で「合気武術」を指導するようになります。

 

1-2.「合気武術」東京へ

1925年、植芝盛平の噂を聞いた海軍大将竹下勇に招かれ東京へ、各界の要人に演武を披露すると、それを見た山本権兵衛がいたく感激し、青山御所(現在の東宮御所)で侍従・武官を指導することになったそうです。

その後、独自の武道を模索しつつ、1931年に皇武館道場を設立しました。

このころは、皇族、華族、軍人、実業家、武道家の子弟への指導が主となっていたそうです。

1940年には、財団法人皇武会設立し、戦時中は軍学校で植芝盛平が直々に指導をしていました。

1942年、戦時統制策により大日本武徳会の統制下に入ることになったため、戦争反対派だった植芝盛平は、茨城県に隠棲するようになりました。

 

1-3.「合気道」の出発

1948年、終戦後に「財団法人合気会」と改称し、植芝盛平は初代合気道「道主」となります。この時から正式に「合気道」の名称が用いられるようになりました。

その後、1950年代に入ると合気道の本格的な普及が始まり、1976年には国際合気同連盟(IAF)が結成されました。

東南アジア、中央アジア、中南米、欧州などに広まり、2010年には約95か国に支部道場を開設されているそうです。

 

2.合気道の精神

合気道の特徴は「和合の精神」と「万有愛護」を主軸としていることです。

和合とは、日本古来の精神のひとつで、二つ以上のものが一つに親和しあって融合することをいいます。

合気道における和合は、稽古を重ね、心身・技術を高めることを目的とし、敵と戦い破るためではないとされています。

さらに、合気道は万有愛護を養うものとされており、いたずらに強弱を競い勝敗を決めるのではなく、日々の鍛錬による自己研鑽が重要であるため、基本的に試合をしない武道となりました。

 

まとめ

合気道は、常に己を高めることが本質の武術です。単純な強さではなく、精神的にも強くある、そうなれるように努めることが合気道をしていく上で重要になるでしょう。

年齢、性別、体格なども関係なく、いつからでも始められるのが合気道です。興味がある方は、一度体験してみてはいかがでしょうか?